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ケトン体​と神経細胞

おもちゃで遊ぶ子犬

脳とストレス

脳の海馬の神経細胞は、ストレスに対して弱く、強いストレスがかかると真っ先に変性してしまうと言われています。高齢者が衝撃的な出来事の後、急速に認知症が進んでしまうことがあるのはこのためです。特に活性酸素にはきわめて弱いため、海馬の神経細胞を酸化ストレスから守る化合物が広く探索されてきました。

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脳と薬剤

認知症をターゲットとした薬剤の開発には以下の3つの条件が必要です。
 
1.    神経細胞を保護すること。
2.    脳へ充分量移行すること

3.    副作用がないこと。
 

現在の科学のレベルからすれば、1の条件は簡単にクリアできます。しかし2が難問です。殆どの化合物は脳への移行性がほとんどゼロに近いと言われていますが、これには明らかな生理学的な根拠があります。なぜなら薬剤を体外から脳へ入れるには大きな難関が待ち受けているからです。通過してもほんのわずか(多くて数%)です。たとえどのような優れた薬ができたとしても、その薬剤をどのようにして有効濃度になるように脳に送るのかという問題が残されます。その問題をクリアできた薬剤だけが世の中に出てきています。
しかし、ケトン体は肝臓で合成され脳血液関門をフリーに通過できます。よって、自分の体をケトン体システムに変換して、自力で健康寿命を延ばす選択肢もあるということが言えます。無理のない範囲の糖質制限によって必要な量を簡単に達成することができるなら、認知症(の予防)にはそちらのほうも使った方が得策ということになります。

ケトン体とシナプス

ケトン体は、神経細胞のエネルギー基質であるばかりでなく、神経を保護し脳のシナプス再生を促進し、脳全体の機能を保持させます。ケトン体の作用が最も効果的に表れるのが、神経細胞と神経細胞の間にある「シナプス」です。


シナプスはコンピュータにおける半導体と役割が似ています。半導体の性能でコンピュータの性能が決まるように、シナプスの性能で脳の性能がきまります。ケトン体はこのシナプスに直接作用することができます。シナプスではあるレベルの電気信号があると、シナプスを超えて次の神経細胞に電気信号を伝達します。半導体と異なる点は、神経細胞と神経細胞の間が電気的には絶縁されているという点です。この間の情報の伝達は電気エネルギーではなく、神経伝達物質という化学物質が介在します。この物質が介在するため、電気エネルギーから化学エネルギーへ、化学エネルギーから電気エネルギーへというエネルギーの変換が必要となります。


そのエネルギー変換のためにこそ大量のエネルギーが必要となりますが、その大量のエネルギーをまかなうためにシナプスにはミトコンドリアが集積しています。ミトコンドリアは全ての細胞のエネルギー生産工場ですから、これが集積しているということは、その場所では特にエネルギーに対する需要が大きいということでもあります。ですから神経細胞のエネルギーが不足したとき、このシナプスの機能は真っ先に大きく低下することになります。エネルギー不足のためにシナプス伝達ができません。これが認知症の初期段階の神経細胞の中で起こっていることです。


認知症の初期には、エネルギー不足のため、シナプス伝達ができないでいる神経細胞が多数あるのですから、このような神経細胞にとって、ケトン体は非常にありがたいものなのです。ケトン体を増加させることができれば、神経細胞のエネルギー不足を解消し、認知症の症状を緩和できるかもしれません。


繰り返しになりますが、ケトン体の素晴らしい点は、このシナプスに大量に集積しているミトコンドリアに直接作用してエネルギー基質となることです。すなわちシナプスの機能の低下を一挙に解決できる可能性があるということです。


ケトン体は脳血液関門をフリーに通過し、神経細胞の細胞膜も通過し、神経細胞のミトコンドリアに到達しエネルギー基質となります。やはり、認知症の予防のためには、
体内で肝臓がケトン体を合成できる状態にしてやればいい、ということになりそうです。

幸福物質セロトニンと記憶物質グルタミン酸

脳で重要な役割を受け持つ神経伝達物質がふたつあります。セロトニンとグルタミン酸です。


セロトニンは「幸福物質」と呼ばれ、人が幸福感を感じながら人生を送るためには絶対に必要な神経伝達物質です。セロトニンが不足すると、何をしても幸福感が感じられず、ものごとに否定的になりがちです。すなわち「うつ病」になる可能性が高まってしまいます。一方グルタミン酸は「記憶物質」と呼ばれ、昔のことも今現在のことも記憶するためには絶対に必要な神経伝達物質です。グルタミン酸が正しく作動しないと、つい数秒前のことが思い出せない、また外出して自分がどこにいて、どこに行こうとしたのか忘れてしまうことになります。ついには自分が誰であるかを忘れてしまう。すなわち「認知症」に……


いま年配の日本人が恐れるのは「認知症」であり、若年の日本人が多く罹患しているは「うつ病」です。このふたつの脳の病気は、シナプスのレベルで共通点があります。すなわちエネルギー不足のためにシナプス伝達がうまくいかないことです。「うつ病」でも「認知症」でも、初期には神経細胞死は起こらないと言われています。シナプスで、ミトコンドリアが生産するエネルギーが不足しているのです。ケトン体はこのミトコンドリアに直接エネルギー基質として作用するのですから、このふたつの初期の病態を大きく改善することができるのではないかと考えられています。


すなわちケトン体を持続的に増加させれば、セロトニンとグルタミン酸の作用はいつまでも正常に作動でき、脳の健康寿命を大きく伸ばすことができるかもしれないのです。

神経細胞への作用

 ケトン体は神経細胞のシナプスのエネルギー不足を一挙に解決する能力をもっていることをみてきましたが、それはなぜでしょうか?
それはケトン体が、ブドウ糖と比較して、エネルギー基質として優れた性質を持っているからです。ブドウ糖と比較してエネルギー効率が高く、言わば、「スーパー燃料」なのです。
ブドウ糖はまず細胞質に入りますが、完全に酸化されることがないのに対して、ケトン体はミトコンドリアに直接入るために、完全に酸化されます。このためケトン体のエネルギー効率は高いのです。

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実験で、ケトン体を神経細胞に添加してみて、ベータヒドロキシ酪酸という「ケトン体」の化合物の神経細胞への作用を観察してみると、その劇的な効果に驚かされます。
ケトン体は1mMで、活性酸素による神経細胞死をほぼ完全に抑制しました。

日常の糖質制限でケトン体1mMというのは、簡単に到達できる濃度ではありません。しかし、
あまり無理のない範囲で糖質制限して、ケトン体を継続的にある程度増加させることにより、認知症を予防できるかもしれない” ということです。

最後に、論文を紹介します。

 

これは、ケトン体に関する今年(2020年)の論文です。

​実験でケトン体を神経細胞にかけると、Aベータ―(認知症の原因物質)が減ることを示しています。


β-Hydroxybutyrate Ameliorates Aβ-Induced Downregulation of TrkA Expression by Inhibiting HDAC1/3 in SH-SY5Y Cells.

Li X, Zhan Z, Zhang J, Zhou F, An L.Am J Alzheimers Dis Other Demen. 2020 Jan-Dec;35:1533317519883496. doi: 10.1177/1533317519883496. Epub 2019 Oct 24.PMID: 31648544 Free article.

Tyrosine kinase receptor A (TrkA) plays an important role in the protection of cholinergic neurons in Alzheimer's disease (AD). This study was designed to investigate whether β-hydroxybutyrate (BHB), an endogenous histone deacetylase (HDAC) inhibitor, …
 

以下の論文は、ケトン体がHDACを抑制して酸化ストレスから保護する、という有名な論文です。

 

Suppression of Oxidative Stress by β-Hydroxybutyrate, an Endogenous Histone Deacetylase Inhibitor.

Shimazu T, Hirschey MD, Newman J, He W, Shirakawa K, Le Moan N, Grueter CA, Lim H, Saunders LR, Stevens RD, Newgard CB, Farese RV Jr, de Cabo R, Ulrich S, Akassoglou K, Verdin E.

Science. 2013 Jan 11;339:211-214.


この研究では、ケトン体であるβ-ヒドロキシ酪酸 (β-Hydroxybutyrate ; βOHB)が、内因性の class Iヒストン脱アセチル化酵素 (histone deacetylases; HDACs)阻害物質であることを報告している。マウスにβOHBを投与したり、絶食またはカロリー制限により内因性βOHBを増加させたりすると、腎組織のヒストンアセチル化は全体的に増加した。また、βOHBによるHDAC阻害により、酸化ストレス耐性をコードする遺伝子(FOXO3A、MT2など)の転写が増加した。HEK293細胞にβOHBを添加すると、Foxo3aとMt2プロモーターのヒストンアセチル化が増加し、どちらの遺伝子発現もHDAC1とHDAC2の選択的欠損によって活性化された。βOHB を投与したマウスは、FOXO3AとMT2活性増加に伴って、酸化ストレス(パラコートによる蛋白カルボニル化など)に対する耐性が認められた。

 

【結論】
βOHBは内因性のHDAC阻害物質であり、絶食やカロリー制限によるmM単位の濃度増加で組織にエピジェネティックな変化(ヒストンアセチル化の増加)を起こして、酸化ストレス耐性遺伝子(Foxo3aなど)の発現を増加させることにより、生体の酸化ストレス耐性をもたらすことが明らかになった。以前より、低炭水化物食によるケトン体産生によって神経の酸化ストレス障害耐性がもたらされること(neuroprotectiveな効果)が知られていた。本研究の結果から、ケトン体産生食(ketogenic diets)やカロリー制限による効果は、βOHBのHDAC阻害効果を介しているのかもしれないと考えられた。

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